曹洞宗 少林山 西来院

開闢開創 南北朝時代(1360年前後)
開創   寛政年間(1789~1801 江戸時代中期)
開山   秋田市補陀寺2世神光寂照禅師無等良雄大和尚
開基   寶戒良殿大和尚(五百羅漢発願主)
諸堂   本堂(214㎡) 開山・位牌堂 大黒天堂 観音堂
本尊   釈迦牟尼仏

文政元年(1818)一大伽藍を消失し、その後に再建された本堂は、昭和52年に大改修が行われ、“羅漢さん”の面目躍如とした伽藍である。すなわち、大縁左右の長押の上と大間梁上に、この寺が再興される機縁となった羅漢像百余体がずらりと祀られている。

また内陣は、寺宝の涅槃図を掛ける必要から、幅いっぱいの須弥壇が設けられ、その後方に本堂と同じ間口の開山・位牌堂があり、正面に藤倉当時からと伝えられる無等良雄禅師座像と、童子を膝にいただいた古い子安観音像を安置し、左側の奥に戊辰の激流の中で落命した仙台藩士12人の位牌を祀り、悲劇の歴史を伝えている。

道案内を乞う時、西来院というよりは「寺内の羅漢さん」と訪ねた方が通り良いといわれるように、この寺はかつて船頭を職とし難船で多くの船子を失い、出家して五百羅漢造立の一大発心を起こした寶戒良殿大和尚が、その生涯をかけて再興した寺である。

『黒甜瑣語』等によれば、三輪氏を称していた船頭が難船後、能代長慶寺11世端相教厳大和尚のもとで剃髪し良殿と称し、師の晋住と共に補陀寺で修行していたが、なぜか師の勘気を蒙り、雲水となって江戸に上り、五百羅漢造立を発願し、天明元年(1781)に公儀から7年間江戸での托鉢の許可を得て浄財を募り、寛政元年(1789)までに羅漢像300体の造立をみたと伝えられている。

この時点で郷里に五百羅漢堂建立の計画を立てるのであるが、勘気の解けた本師の「能代よりは府下に草創すべし」との助言もあり、時の秋田藩9代佐竹義和の外護を得て、藤倉にあって廃寺同様となっていた西来院の名跡を寺内に移し、壮大な羅漢堂建立に当たったものである。この藤倉にあった西来院は、南朝の重臣・萬里小路藤原藤房その人との伝説をもつ補陀寺2世無等良雄禅師閑居の寺であったと伝えられる。

良殿大和尚は伽藍建立に当たり、平安遷都の際、伝教大師が法華経一字一石9万部を地下に敷きならしたとの古事に習い、西来院境内に領民に呼びかけ法華経一字一石9百部を敷いたといわれ、昭和十年代にその一部が出土し、史実を裏付けしている。

また、良殿大和尚の描く伽藍は、大門、山門、中門、弥陀堂、本堂を直線上に配し、中門左右から翼上の回廊で方丈、客殿が張り出し、弥陀堂と本堂を四角上に回廊で結ぶ壮大なものであるが、その完成は良殿没後、補陀寺29世智光全長大和尚の管理下で文化年間(1804~1818)に完成したとされるが、その実像は定かでなく、完成直後の文政元年(1818)に焼失している。現存していればまさに東北屈指の大殿堂と称されたであろう。惜しいことである。

しかし、この全長大和尚が発願したのが、あの有名な「蓮曼荼羅涅槃図」であり、現存する羅漢像に加え、仙台藩士の位牌や境内の成章館主柿岡林宗碑、歌塚、筆塚などとともに貴重な文物を有する寺である。

少林山 西来院 -曹洞宗- 〒011-0905 秋田市寺内神屋敷11-6  文章出典「秋田県曹洞宗寺伝大要」著・大坂高昭師(無明舎出版) 画像・文章の無断転載禁止 / by rinshoji.com