和尚歴遊(角館 天寧寺)

2010年10月11日 3:57 PM Filed under: 和尚歴遊 

慶長の国替えで佐竹公と共に秋田入りし、角館城主となった芦名氏の菩提寺天寧寺。末寺8ケ寺を擁する名刹である。

天寧寺

天寧寺

芦名氏は相模国三浦郡芦名に起こり、源頼朝の奥州合戦の功績により会津黒川城主となる。その時分菩提寺として建立したのが現在も会津若松市に残る天寧寺である。芦名氏は秋田への国替時、総移転ではなく会津天寧寺を(対等に)分かつ形で角館天寧寺を建立したため、会津・角館は本寺・末寺ではなく、共に新潟県村上市耕雲寺を本寺としている。

本堂は明治18年の大火で類焼し、以来長いこと仮本堂であったらしいが、昭和44年に悲願叶い新築された。外の光が存分に入る明るい本堂で大坂仙雄住職より寺伝や芦名家悲運の歴史などを拝聴した。

本堂内部

本堂内部

芦名家の悲運

角館城主初代芦名義勝の嫡子・盛泰が早世していたため、1631年(寛永8年)義勝が没した時、芦名家は断絶の危機に直面した。が、義勝没後4ヶ月して側室・安昌院に男子・盛俊が誕生して後継を認められ、かろうじて断絶を免れた。

危機を乗り越えた家臣の間で、盛俊の時代に芦名家を再興しようとする気運は一層強まり、家臣・岩橋又右衛門、宮崎主殿介を中心に将軍家への働きかけが行われた。盛俊が将軍謁見を終え、芦名家再興までもう一歩という時期に至った1651年(慶安4年)、盛俊は20才で病死してしまった。

芦名家再興の夢を失った家臣の落胆は大きく、岩橋又右衛門は盛俊の死の翌日に殉死、宮崎主殿介は盛俊葬儀の日に殉死した。またこの時、盛俊の草履取りも殉死。

盛俊の没後、嫡子・千鶴丸(せんつるまる)が1才で後を継ぐが、3才の仏参の折り、天寧寺の縁側から沓脱ぎ石の上に転落して夭逝。全くの予期せぬ不運が続き、芦名家は1653年(承応2年)断絶した。

芦名家墓所

芦名家墓所

 

角館の優雅な歴史ロマンの中、埋もれること無きよう悲運を現代へ伝える。いや、悲運もまたこれロマンかな・・・


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