横川から車で十分と少しのところに比叡山の中心である東塔と呼ばれる区域がある。先程参拝した横川とちがい観光客が沢山いる。御土産物屋や国宝殿と呼ばれる寺宝館が駐車場のすぐ先にあり、そこから舗装された緩い上り坂の参道が続く。参道には比叡山開山伝教大師最澄一代記などが掲示されている。
参道を上がりきると最初に見える伽藍は大講堂である。横川と同じ朱塗りの大講堂には仏教をお開きになったお釈迦様や天台宗開祖伝教大師最澄、天台宗歴代祖師、そして比叡山ゆかりの各宗派開祖達の絵画が外陣を囲むように長押の上に掲げられている。
また、比叡山ゆかりの高僧と各宗派開祖様たちの木像も安置されている。ちなみにここにある我が曹洞宗開祖道元禅師像は絵画・木像共に少々恰幅が良過ぎる気がする。
そして内陣には極彩色の須弥壇に大日如来が本尊として祀られている。脇侍は弥勒菩薩・観音菩薩。金色の本尊は智拳印ではなく法界定印と結んでいるので胎蔵界大日如来であろう。智拳印を結ぶ金剛界大日如来はよく見るが、胎蔵界大日如来は初めてだ。螺髪は鮮やかに青く、唇はほんのりと赤い。しかし色気のある唇は固く結ばれており、痩身ではあるが逞しい腕と力強い眼差しは如来の王たる威厳を具えている。燃えさかる火炎のようにみえた光背はよく見ると天女が降りてくる姿であった。
この大講堂より奥へ下り、土産屋や萬拝堂などがある広場をさらに下ると、この比叡山延暦寺の本堂である「根本中堂」が見える。
杮葺きの回廊門が堂宇を囲み、入母屋造りの屋根しか見えない。正面に回っても入り口には垂れ幕があり、どうやっても外から国宝である根本中堂を垣間見ることはできない。内部拝観はできるが写真撮影は禁止。拝観の記憶と比叡山について調べた資料を織り交ぜて紹介しよう。
せり出しの少ない唐破風が入り口である。靴を脱ぎ回廊に上がるとすぐ目の前に堂が見える。織田信長の比叡山焼き討ちにより焼失した堂は徳川三代将軍家光により再建された。色褪せた朱塗りの堂の前には小振りの庭園が。
回廊を時計回りに進む。壁には比叡山で応募した学生達の書作が掲示されていた。
堂の中は薄暗い。なんともいえない荘厳な空間である。内陣・中陣・外陣と分かれており、私達参拝者は中陣にてお参りをする。
この根本中堂は私が今まで拝観してきた寺院と大きく違い、内陣が数メートル低い(後で聞いたところ3メートル程)。石敷きの内陣は覗き込む下に僧侶達の席がある。各席には一人用の経机が置かれ、正面には我々中陣でお参りする者達と同じ目線に、1200年前より絶やすことなく燃える「不滅の法灯」が両脇より本尊様の厨子を照らす。この最澄自ら灯した法灯は比叡山焼き討ちの際に一度消えたらしいが、分灯していた山形県立石寺の法灯より再燃し事なきをえた。本尊様や法灯が参拝者の目の高さにきているのは、仏も人も一つという仏教の「仏凡一如」の考えを表しているそうだ。
本尊は最澄作の薬師如来。最澄はこの像を彫るとき、一刀入れる度三礼したという逸話が残る。この本尊は比叡山焼き討ちの際焼失。その後最澄が本尊と同じ霊木から作ったとされる薬師如来像を岐阜県の横蔵寺から移して祀っている。薬師如来は現世利益の仏様。筆舌に尽くしがたい程荒廃した当時の民衆がこの本尊様にすがったことは容易に想像できる。
根本中堂の参拝を終え、戒壇院と東塔へ向う。戒壇院とは出家者が僧侶になるための戒律を授かる(授戒する)場所。4尺ほどの石垣の上に二層方形の戒壇院。上層の屋根に唐破風が付いている珍しい様式だ。残念ながら内部拝観は出来ない。
奈良時代、中国より鑑真和上を迎え東大寺戒壇において初めて国が許可する授戒会が行われた。当時は出家者が授戒することは国の許可が必要だった。伝教大師最澄はこの比叡山延暦寺にも戒壇を設けたいと国に掛け合ったが、許可されたときには既に滅後であった。
そしてこの東塔で一番の高台にあるのが法華総持院東塔である。伝教大師最澄は、日本全国6カ所の聖地に宝塔を建立した。法華総持院はそれらを総括する宝塔で、根本中堂と共に重要な信仰道場。信長の焼討ちからおよそ400年ぶりに再建さた。
ここまで下手糞な文が長々と続いてしまったが、比叡山は本当に見るところが沢山あって、これだけ書いてもまだ足りないくらいだ。堂宇の多さもさることながら、比叡山にはいない仏様がないのでは?と思うほど諸堂及び国宝殿には様々な仏様が祀られている。しかも今回は旅程上半日しか時間がない為に西塔区域を参拝できなかった。しかし言い換えれば次に訪れたときの楽しみが残ってるということになる。近いうちに来れるだろうかと考えたが、たとえ数十年後に訪れたとしても比叡山は変わらぬ姿で歴史と仏教を伝えているのだろう。
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